コーヒーの至福
コーヒーもう一杯。
私が大好きな片岡義男の本の中にこのタイトルがあった。
One more cup of coffee
いい響きである。
そういえば、ふと気が付くと最近つい日常の忙しさに流されてインスタントコーヒーしか飲んでいないことに気がつく。
冷凍庫を探すと奥に友人からもらったコーヒー豆があった。あった!あった!と静かにヨロコビながらミルで挽くと、かすかではあるが香りが残っていた。うれしい。
コーヒーの命はあの香りだと思う。
生まれ育った環境がコーヒーの香りに中で育ったこと。
私にとって、JAZZが聴覚の懐かしさならばさしずめコーヒーは嗅覚と味覚の郷愁。
どこへ行ってもお客さんから「マスターの子」という表現で呼ばれた私の幼年期においてコーヒーは、大人の飲み物であった。
今でこそコーヒーにミルクや砂糖を入れる人は少数派だろうと思うが、当時はまだミルクと砂糖は、蕎麦でいえばわさびとねぎのように必ず入れるアイテムだったと記憶している。
そしてブラックで飲んでいる客は「通」だね。という会話があった時代だ。
コーヒーの初体験は、自宅兼店舗だった当時の1階の店の中で、母が小さなミルクピッチャーにスプーンで注いでくれたごく微量なコーヒーが最初だったと思う。
いまでこそミルクは便利なパックになっているが昭和40年代にそんなものはなく、ミルクをあの小さな金属カップに入れてから出していた。そのちいさなミルクピッチャーのコーヒーが最初である。
そんな昔の事を思い出しながら、コーヒー豆を挽く。
ポットはカリタ製である。ポットは長年探していた先の細いポットを昨年ハーレーの友人であるwoo氏が、教えてくれたサイトでネットを通じて購入したものだ。Woo氏は、ハーレーを通じて知り合った外科医だが、その職業と決別し、真剣に喫茶店を開店しようかと時々本気で考えるかなりのコーヒー通である。
このカリタ製ポットは3年ほど前に、同形のモノを、いとこ(私にライカウイルスを植え付けたキケンないとこ)が使用していて、私もブツヨクアンテナが激しく振幅したものだ。特別デザインがいいわけではない。どちらかと言えばキモイ(笑)。だが、とにかく細く注ぐことができるのである。さらにこの購入したお店ではつまみと注ぎ口にモディファイが施されていた。
同じく針金でできた金魚すくいのようなフレームにオリジナルの濾紙を使用する。
カリタやメリタの濾紙は、底の部分が折り畳んであるときは台形であるため、理論的に言ってもこの円錐状のほうがいいに決まっている。なるほどと説明を読んで思わず買ってしまったのである。驚いたことにこの方式はコーノ(河野)式というらしく、すでに私の名字がついているので余計に親近感がわくではナイカ。探してみたらすでに私はこのコーノ式のドリップを持っていた。だれかにどこかでもらったらしい。(ちなみにそれを見つけたのは買った後の話である)

コーヒー豆のお気に入りは、ここ数年はマンデリンだ。私の味覚がずれているのかどうも世間一般的な酸味の強いコーヒーは苦手である。その点このマンデリンや3年ほど前から好きなハイチコーヒーも好きになった。このハイチコーヒーは、これまたハーレー乗りの友人で組長という名前で呼ばれているコーヒー通な友人(けっしてその筋ではなく本業はアパレル系)から教わったコーヒー豆だ。HDO(ハーレーとダッチオーブンのメーリングリスト)でのキャンプの際にコーヒー通で知られるカフェド組長とコーヒー豆の話しをしている時に聞いてさっそく売っている場所まで買いに行き予想通りはまってしまったのである。
蕎麦・コーヒー・あるいは、ピザにしても今まで、おいしいと思っていた食品でもさらにその世界にはまっている人に尋ねてホンモノを食べてみると流石に味オンチな私でもそのおいしさに驚愕するが多い、ここ10年の経験である。
説明をしている間に、お湯が沸いたようだ。
最も大切な蒸らし時間と温度を気にしながら、久々の朝のコーヒーを味わう。うーん新鮮な豆を買いにいこうかなどと考えつつマグに入れて雑誌を読む。
朝のひととき。まさに至福の時間。
え?至福の時間が多いって?そりゃーあんた苦痛の時間よりも至福の時間が多いほうが至福の人生ってもんですよ!(笑)
朝からコーヒー豆を挽いてコーヒーを煎れて飲んだ!と言えば必ずといっていいほど、優雅だねーという言葉が返ってくる。
なるほど優雅かあ・・・いい言葉だなあ。
対義語は粗野だろうか?
粗野といえば、城山三郎 著の「粗にして野だが卑ではない」という元国鉄総裁の石田禮助の生涯を以前読んだ記憶がある。
細部は忘れたが、明治時代の男はかっこいいなあと思った記憶が・・
粗野といえばこの言葉を思い出すので粗野の単語の持つイメージは私の中では悪くはない。
話がそれたが読書といえば、「最近忙しくて本も読めない」という人がいるが、そういう返答は正確ではないな、と内心思う。読む気がないだけだ。
自分で「忙しい!」という人よりも、どうみても10倍以上忙しいはずの人でも読む人は読むのである。別に本を読むのが偉いわけではないが、正確に言うならば元々本は読まないと言うべきだろう。
話は優雅な時間に戻る。
いささか逆説的だが、本当に忙しい人ほど優雅な時間を作り出せるのかもしれないな・・とも思う。
仕事は忙しい人に頼め!という法則と同じである。
優雅な時間をリッチな時間とも言うが、まさに貧乏暇無しの対義語になる。
好きな言葉に「今日も人生の一日」という言葉がある。
今日も素晴らしい至福な一日だったと思える人の一生は至福な人生だろうし、毎日忙しい忙しいと感じている人やあるいは目先の金銭獲得が人生の目標になっている人はもう一度その先にある目標をよく確認したほうがいいと思う。
日本は戦後、エコノミックアニマルや、働きバチなどと半ばコバカにされつつも自動車も家電製品も生産品質も生産量もNO1となった。
「おしん」の時代のように、日本全体が、明日の米も食べられないかもしれないという不安のある生活からは脱却した。だがその後、バブル期というごく限られた一部の人間だけがおいしいところを食い逃げし、しかも億単位の銀行の負債は帳消しにされるなかで、まじめに30年40年と働きつづけた人はレイオフの対象となり、マイホームも取り上げられてしまう悲惨な現状である。さらに年金やその他の社会システムは崩壊し不安は高まるばかり。
結局これは社会全体、そして日本という国が生まれてきた意味や目的や人生の楽しさを考えずひたすら経済ばかりを目標にして今を大切に楽しく生きるということを忘れていた事へのツケだったと私は思う。エコノミックアニマルと当時世界から酷評されていた評価は恐ろしくも当たっていたわけである。
物事すべてを金銭換算してしまう友人がいたとすればいやな奴だと思うだろ。物事すべてを金銭換算してしまう国があれば、その国をなんと感じるだろうか。
目標はお金。決して悪なことではない。なにをするにもお金が必要だし、大切だ。肝心なのは多くの終着目標がお金の山という駅に向かう貨車のような中に閉じこめられていたのではもったいないのではないかと思う。終着駅ではどんなにお金があってもそこはもう終わりである。
おなじ終着駅に着くのであれば、途中下車したり、感動する音楽や絵画など精神的に豊かにしてくれるものを味わいながら食事をしていろいろな人や風景に巡り会いたいと私は思う。
コーヒー一杯を優雅に飲めば、人生までも考えることができる至福の時間。
おっともう一杯のコーヒーは車の中で飲むことにしよう。残りのコーヒーを小さなポットに入れて、ラテンの車の中で、パバロッテイの歌声を聴きながら私はさらにそう確信した。
2003年3月1日