21世紀はデジタル・コンテンツの時代と言われている。contentsとは中身、内容だ。
すでに10年ぐらい前からこれからは情報化時代、あるいは「モノから事へ」と、繰り返し聞かれた。なるほどこの10年間を振り返れば、インターネットや携帯電話は世界を変え、金銭のシステムも従来のカタチあるモノから接続量だとか目に見えないソフトへ産業構造が変化した。少しづつに見えた変化も実は信じられないほどのスピードでだったことを実感する。デジタルという魔法は劇的に、伝達スピード、互換性、検索やつながりという主にコンテンツの性能面で飛躍的に進化した。だがデジタルそのものは、素晴らしい、あるいは新しいコンテンツを生み出してくれるわけではない。そのことをよく認識しておくべきだと思う。
素晴らしい音楽や、映像、あるいは物語を0から生み出すのは人間なのだ。「デジタルは嫌い」だとか、「いや、やっぱりデジタルだ」とかそもそもそういう認識や論争そのものが無意味である。究極はコンテンツなのだ。そしてこのコンテンツは太古の人間の歴史から音楽や書物として人間の衣食住と同等に生きていくための精神的な糧・喜びあるいは集団を形成するための重要な役割をこの地球上のあちこちの人間社会で果たしてきた。太鼓をたたき、歌を唄い、あるいは書物に物語りや歴史を書き記す。こうしたコンテンツは20世紀以前も何百年も前から存在したのだ。20世紀は、19世紀後半の産業革命以降、急速に大量生産、工業化が進み乗り物や便利な道具、あるいは機械が生まれた「モノ」の時代で、見方を変えれば長い歴史の中ではこれからの21世紀の方が、「モノ=ハード」中心の時代から「ソフト=コンテンツ」の時代にまた戻ってきただけだ。という見方もできる。
たとえば、「決定的な瞬間」を撮影したとする。その写真の持つコンテンツは本質的な意味においてライカで撮影しようが、デジカメで撮影しようが大差はない。あるいはすぐれた物語は、アナログである鉛筆で原稿用紙に書かれて生まれていても、あるいはデジタル機器のキーボードで製作されていようが読む方にとってコンテンツとしては全く差はないしどうでもいいことだ。
コンテンツが生まれる課程やあるいは目に触れる瞬間の方法がデジタルだろうがアナログだろうが、要するに本質のある本物こそが、人を感動させる事に間違いはないはずだ。
2002年1月9日